東日本大震災から10年

今日は東日本大震災から10年目の3月11日。陸前高田市出身の夫の両親が今も市内で暮らしています。私も33年前に結婚してから年に何度も訪れている第2の故郷の地です。

あの日、夫の両親は高台の自宅にいたので、ぎりぎり津波の被害からは免れました。

東京にいた私たち家族は、方々に手を尽くしましたが安否確認ができずに本当に不安な3日間を過ごしました。いろいろな方を通じて漸く無事を確認することができたので、あくる日すぐに秋田空港を経由して車をチャーターして、夫が両親を迎えに岩手へ向かいました。(ガソリンが手に入らなかったので東京から車で迎えに行くことは不可能でした)

夫は瓦礫の道をなんとか実家までたどり着いたのですが、両親は実家を離れたくないといい、結局夫は二人を置いて東京に戻りました。10年前だったので、両親もいまよりはまだ若く、流されなかった家を守り、地域の方たちのために、井戸水や身の回りの物を提供したり、家を失った近隣の方々のために出来ることがあるからと留まったのでした。

電気も電話も止まっていたので、テレビを見ることもできず、被害がどれほど酷い状況だったのかがすぐには把握できていなかったためかもしれません。それに幸いにもガスはプロパンで煮炊きもできたし、米や野菜の蓄えもあり、灯油の蓄えもたくさんあったので暖をとることができたこともあり、日が昇ったら活動し、日が沈んだら休むという暮らしをしながら、何とか頑張ってくれました。(固定電話が開通したのはなんと半年後くらいでした。電気が通ってからは高台に上って時々携帯電話から連絡をくれて、必要な物資を郵便で送るという具合でした。)

被害の状況が段々と明らかになって、親族の中にも亡くなった方もいたり、友人をたくさん津波で亡くし、父も母も本当につらい思いをしました。若いころは二人とも地元の小中学校の教師をしていたこともあり、お付き合いのある方がとても多いので、日を追うごとに入る訃報に、日々悲しい思いをしたに違いありません。

陸前高田の街は震災後、かさ上げ工事がされ、いまは大きなスーパーマーケットが出来たり、少しずつ公共の施設が建ったりしていますが、街に住んでいたり商店を営んでいた方たちは、津波から生き残った方々も(若者は特に)生きるために各地に引越された方も多く、10年たった今も元のようには戻れてはいないようです。

私もできる限り、地元の海産物やお味噌、果物などを食べて応援したりはしていますが、去年今年はコロナのこともあり、直接行くことができないので残念に思っています。

この記事のキャッチ画像は震災から数年後の桜の時期の写真です。津波の被害をギリギリ免れた陸前高田市内のお寺の見事な枝垂桜です。東北は例年4月の半ば過ぎに桜の満開を迎えるので、そのころにはコロナの感染も収まって、岩手に行くことが出来たらと願っています。

大震災の津波で亡くなった大勢の方の魂を悼み、そしてあの日、家族や大切な方を失っても笑顔を忘れず、亡くなった方の分まで一生懸命に生きていらっしゃる多くの方々のために、今日は祈りたいと思います。

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